『舟を編む ~私,辞書つくります』(作:三浦しをん,脚本:蛭田直美)のNHK総合での放送が終了した。観ているうちに何度も引っ掛かりを感じ,国語辞書をめぐる環境の大きな変化に気付かされた。
大手出版社「玄武書房」の辞書編纂室に異動になった池田エライザは,当初,辞書に全く関心を持てなかったが,もう一人の正社員,非正規社員,アルバイトの大学院生,嘱託,それに製紙会社担当者たちとともに中型国語辞書『大渡海』編集の実務を担う間にこの仕事にのめり込んでいくという物語である。
このドラマは,2024年にNHKBSで放送され,ドイツの「ワールド・メディア・フェスティバル」金賞や東京ドラマアウォード2024連続ドラマ部門優秀賞を得ている。原作『舟を編む』は,2009年から2011年まで雑誌に連載され,2011年に光文社から単行本が出て,2012年の本屋大賞を得た。さらに2013年に映画化(監督:石井裕也)され,日本アカデミー賞では最優秀作品賞など6部門で受賞した。
国語辞典には,辞書の代名詞となっている『広辞苑』(岩波書店)をはじめ,独特の語釈で知られる『新明解国語辞典』,「辞書は時代を映す鏡であれ」と述べる飯間浩明氏が収集する新語が充実している『三省堂国語辞典』,文学色の強い『新潮現代国語辞典』など数多いが,実は『大渡海』にはさしたる特徴はない。ただ,大多数の利用者,読者がこうした辞書の間にある差異を意識してきたとも思えない。『広辞苑』の信者はいたらしいが。
ドラマ『舟を編む』では辞書完成は,2022年頃となっているが,すでにその数年前に,玄武書房の新社長は『大渡海』の印刷版での刊行を中止しようとしていた。もはや印刷作業や紙への支出の負担に耐えられず,電子版だけでよいという判断をしたのである。しかし,編纂に関わる人々の努力で印刷版の発売にこぎ着けて終わる。
『広辞苑』第1版(1955年)は約100万部,第3版(1983年)は約260万部も売れたが,第7版の目標は20万部に過ぎない。原作が生まれた15年前には,そうではなかったかもしれないが,現在では国語辞書の市場はとても狭くなっている。本は印刷版から電子版へと移ってはいないが,地図や時刻表などとともにツールである各種の辞書は,ウェブ版にほぼ移行した。そしてこの数年はその傾向が加速している。また,各出版社が,国語辞書出版を競い合う状態は終わりつつある。
こうした時期に,紙の調達を含めて印刷版を目的とした辞書編纂作業のすばらしさを訴えるこのドラマに時代錯誤を感じた。紙の1ページのレイアウトを変えたくないがために新語を加えるのに苦労をする,紙のカードと校正刷とを人海戦術で照合するといった努力が,完全さをめざす象徴として強調されていたが,それは違うのではないか。2024年のBSでの放送を観た時には,それほどには思わなかったから,この一年の生成AIの普及に強く影響されているなという実感がある。例えばPerplexityに,「ことば」に「とは」をつけて尋ねると,そのことばの意味や使い方,例文,類語,対義語,英語表現,さらには画像まで表示する。一瞬のうちにウェブの海の中から拾い出したデータを整理して提示してくれる。
とはいえ,7月末に小学館が,日本唯一の大型国語辞典『日本国語大辞典』の改定に着手し,2032年に完成予定というニュースには驚き,喜んだ。用例主義と国語研究の成果が反映された国語辞典は,ウェブ版だけであっても価値がある。つまり,電子版の信頼できる大型国語辞書が一つだけあって,それが維持されていき,一方,寄せ集めであり,信頼性は劣るけれど,ことばの姿を多面的に表わすAIの辞書機能の隆盛という形になっていくのではなかろうか。
辞書編纂作業への挽歌として作られたドラマだったのかもしれない。